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温孔知新 素晴らしき謄写印刷の世界

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後藤 卓也 著
体裁:A4判 / 56貢
送料・梱包料込

 
 
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人間技の素晴らしさ、凄さ

(一社)日本グラフィックサービス工業会 山形県支部長
山形謄写印刷資料館 館長        
中央印刷株式会社 代表取締役 後藤 卓也

 日頃は山形謄写印刷資料館の運営に対してご支援ご協力いただきありがとうございます。山形謄写印刷資料館は亡き父、後藤義樹が1996年2月に設立してから2021年2月で25年になります。
 この度設立25周年記念に、2016年1月より私が山形県支部長を務めています印刷組合の団体である一般社団法人日本グラフィックサービス工業会の機関誌「グラフィックサービス」に丁度25回にわたって連載した「温孔知新」を単行本化しました。

 一般社団法人日本グラフィックサービス工業会(以降はジャグラと略称で表記させていただきます。)は、全国の謄写印刷業者が集まってできた組合が最初のルーツです。2015年に守田輝夫現常務理事から組合のルーツである謄写印刷についての記事を来年1月から1年間連載してもらえないかという依頼がありました。日頃から書き溜めていた謄写印刷についての文章がいくつかありましたので、二つ返事で了解しました。ところがこれが大変な事で、一回あたり約2,500字の文章に掲載写真数点を載せるために資料を写真撮りしなければなりません。内容検討に一日、文章作成に一日、載せる資料を探すのに一日、資料の写真撮影やスキャナ撮りに一日、と最低丸四日はかかります。
 もちろん文章を書くのが本業でないし、日々の営業活動の傍ら掲載文を作らなければならなく、最初は以前書き溜めていた文章を基に資料作成するので比較的楽でしたが、次第次第に書き溜めていたネタが切れてきます。そして、原稿をジャグラ本部に送ると、すぐに次号の原稿催促が来るといったあんばいで、休日返上で原稿作成しました。原稿作成は大変な事ですが、一方楽しみでもあり、千人以上の人が見る以上出鱈目は書けないし、謄写印刷の様々な側面を勉強する機会を与えていただいた、いい機会だったかなと思っております。

 謄写印刷の事をいろいろと調べていると、一番に感じる事は、人間業の素晴らしさと凄さです。謄写印刷は基本的には制作者である人間が、緻密な作業で印刷原版を作り、印刷も一枚一枚手刷りであり、多色刷りの場合には一版一版刷り重ねていく訳です。その出来上がった印刷物は今の私達が見ても、真似できない美しさにあふれています。
 例えば鈴木藤吉が制作した昭和初期のチラシを見てみると、文字はフリーハンドなので一つ一つの字体が全部異なり、今のパソコンフォントの書体で作ったチラシでは、逆立ちしても遠く及ばない美しさにあふれています。

 連載記事のタイトル「温孔知新」は皆さんお分かりの通り「温故知新」と「孔版」とが合体したタイトルで、守田さんか、編集担当の藤尾泰一さんが考案したタイトルと記憶しておりますが、的を得たタイトルであったと思います。あくまでも人間が主役で、人間の、人間による、人間のためのコミュニケーションツールが印刷であるという基本はこれからも永遠に変わらないのではないかと思いますし、変わってほしくないと念願します。
 今年になってのコロナウィルス蔓延によって、「絆」に代表される「みんなで一緒に頑張る」という日本人の、世界にも誇れる素晴らしい国民性がだんだんと失われるのではないかとの危惧があります。改めてこれまで築き上げてきた先達方の偉業を振り返る事は、そんな日本人の国民性の回復のきっかけにならないだろうか。と念願いたします。
 それではこれから我々の先達たちが創る謄写印刷の素晴らしい世界を堪能下さい。

この街は彼が燃やした 小姓町遊郭の焼失

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渡辺 大輔 著
体裁:B6判 / 179貢
送料・梱包料込

私はね、この謎を解くのは君だと思っているんだ。

その放火事件は明治27年5月26日に起きた。
遊郭はなぜ炎に包まれなければならなかったのか。

『キャバレーに花束を』の著者による第2作!

初版限定特典『キャバレーに花束を』未収録!
キャバレー「ソシュウ」の元ナンバーワンホステスへ新たに取材を行いました。
こちらの新作話を、『この街は彼が燃やした』の初版分限定として封入いたします。

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日が出たら出発しよう。
山形市を抜けて、明日中には新庄市に着きたい。
昨晩までの君はそう考えていたはずなのに、二日酔いを自分への言い訳にして、まだ布団に残るおしろいと石鹸の匂いにまどろんでいた。
すっかり身仕舞を終えた若竹が、枕元に座って昼食を勧めてきたが、君は喉仏に引っ掛かったような返事でそれを断る。同時に吹いた風に障子が揺れて、君の声はかき消された。だが若竹は表情を見て察したのだろう。一つうなずいてから、ほほ笑みで君をいたわった。
眠りから呼び戻されたのも、朝に吹いた風のせいだった。そんなことを思い出して少し腹を立てる。憎んでも仕方のない相手とわかってはいたが、盗人の隠れた場所を探すように、君はしばらく耳を澄ました。しかし風はひととき勢いを弱め、代わりに聞こえてきたのは、往来の足音と客引きの女の声だった。
ああ、昼見世が始まったのだ。
君は昨晩の若竹との出会いを思い出す。格子窓の向こうに並んだ遊女たちの、一番奥に若竹は佇んでいた。ややこけたその白い頬が、君の憂いを誘った。哀れんだわけではない。旅の道中に浮かんだ、己の行く末への漠然とした不安が、彼女の姿と同調したのだ。

立ち上がろうとした若竹を、今度は一つ咳払いをしてから呼び止める。今夜もここに泊まることを告げると、彼女は深々と頭を下げた。
昨年末にこの金嶺楼で起きた首くくり事件は、すっかり客足を遠のかせたそうだ。昨晩、若竹から聞いたその話に、君は手厚い歓待を受けた理由を知る。連泊を決めたのは、それに気を良くしたわけでも、ほだされたわけでもない。若竹の口から語られた、ある事件が君の好奇心をかき立てていたのだ。
明治22年7月。今から5年ほど前の出来事だ。
東京築地の川の中で、男の死体が見つかった。擦りむきや打ち傷、殴打の跡が全身にあり、頭には二寸の穴。何ともむごたらしい死骸だ。およそ30歳から40歳と推測されるものの、事件の手掛かりと呼べるようなものはほとんど残っていない。
彼がなぜ、どこで、どのように殺されたのか。それを解明するために、ふたりの探偵が推理合戦を繰り広げる。そして、ある重要な証拠が見つかった。

そこまでだ。
そこまで話して、昨夜の彼女は寝入ってしまったのだ。

君は若竹に生まれを尋ねる。この山形にいて、なぜ東京のそのような事件を知っているのか。君はあちらから出てきた人間なのかと。
若竹は首を横に振り、昨日は隠していたことがあると君に詫びた。実は昨夜の話は創作なのだと。黒岩涙香という作家の『無惨 』。日本人が書いた初めての探偵小説と言われているらしい。
感嘆した。このような博識の遊女がいたこと。本を開かずに物語を誦んずる勤勉さ。
君がそれを口にすると、彼女は右手を頬に当て、障子の向こうを眺めるようにして打ち明けた。
以前、東京からやって来た客がいたこと。彼が、持ってきた本を読み聞かせてくれたこと。その真似事をしているうちに、自分も暗誦できるようになってしまったこと。
その語り口はまるで、もうこの世にはいない人間を憧憬するようだった。君は言い知れぬ嫉妬心を感じ、話題を変えようとする。
そうだ。先ほどは胸にしまったことを尋ねてみよう。
若竹。その『無惨』だが、昨夜は先が気になるところまで話して眠りに落ちてしまったようだが、もしやそれは……。

その時だ。

半鐘が鳴った。いや、乱れ打ちと言うのが正しいだろうか。身がすくむほど、鐘は激しく打ち鳴らされる。
火事か。とっさに君の口からこぼれた。
楼主から指示が出され、君たち客は「牛太郎」と呼ばれる楼の若い衆に、女たちは遊女の監督役の「遣り手」に先導されて、それぞれ避難を始める。昼間だったのがまだ幸いだった。夜の遊郭で同じことが起これば、逃げる最中に多数の怪我人が出たことだろう。
蝋燭に火が付いたらしい。後方から、そんな声が聞こえてきた。
楼を出て空を見回すと、確かに煙が上がっている。後ろから聞こえる男の声を頼れば、火元は南西に隣接した「蝋燭町」だという。
急に舞い上がった砂埃に、君は目を閉じる。また風にやられた。だが、もう腹を立てている場合ではない。この風が、じきに炎を運んでくるのだ。

「大門」と呼ばれる石門をくぐれば、これまで先導してきた牛太郎は、君たちの見送り役に変わる。さあ、火の手が近づいてくるぞ。北へ走る者。南へ走る者。血相を変えて西へ走る者は、よほど大事なものを取りにゆくのか。
君はどちらへ逃げる? 先ほどの砂埃は北からやって来た。風下に向かうのは危険だ
ろう。そう判断して、北に向かって一歩を踏み出した。
その時、何者かに肩がぶつかった。男だった。着衣は薄汚れ、放心したような顔をしている。この様子では家を焼け出されたのだろう。蝋燭町の住人か。彼は逃げ惑う人々をただ眺めるようにして立っていた。
早く逃げるよう、彼に声を掛ける。すぐにここにも火がやって来るぞ。
だが、彼はほうけた表情のまま、君に顔を向けるだけだ。
語気を強めてもう一度言った。
しかし彼は足を動かさない。ただ、口をパクパクと開け閉めしただけだ。そこで君は察する。彼は言葉を話すことができない。こちらの言葉も通じない。
どうする。君は彼の肩を二度たたき、それから北への道を指差した。そしてもう一度、怒鳴るように言った。

駄目だった。彼は大門の方へ向き直り、そこをくぐる避難者にぼんやりとした視線を送り続ける。
西の方を振り向けば、勢いを増した煙の中から蛇の舌先のような火がのぞく。彼の手を引くか。それでも動かなければ背中に担ぐか。
再び砂埃が舞い、その中に熱気を感じ取った時、君はひとりで北へと走りだした。途中で何度か振り返ったのは、罪悪感を拭うためか。彼の姿はそのたびに小さくなり、君のやましさはそのたびに大きくなった。
このまま山形を出て新庄へ向かおう。
そう心に決めて、君は振り返るのをやめた。

明治27年5月26日。
午後1時15分頃に起きた山形市蝋燭町を火元としたこの火事は、10時間以上も燃え続けて2906棟の家屋や小屋を焼き落とした。死者は15名。
当然、小姓町遊郭は全焼した。

なあ、君。
そうだ。彼だよ。
大門で出会った、言葉を持たない彼。
この街は彼が燃やしたんだ。

(続く)

やまがたキャバレー時代

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直木賞作家 高橋義夫が描く
山形の盛り場光景
山形新聞好評連載。単行本化

高橋義夫 著
体裁:B6判 / 202貢
送料・梱包料込

目 次
  • やまがたキャバレー時代……3
  • 小姓町の噂……97
  • 「やまがた世相史」のすすめ─後記にかえて……197

 

「やまがた世相史」のすすめ─後記にかえて より

 『やまがたキャバレー時代』は、2010(平成22)年10月5日から、翌2011(平成23)年9月27日まで、23回にわたって、隔週火曜日に「山形新聞」夕刊に連載された。
 山形市内からグランド・キャバレーの灯が消えてから、20年近くたったこと、当時の関係者があつまって同窓会のようなことをしたそうだ。そのスナップ写真を筆者は見せてもらったことがある。(略)その写真を見たとき、彼女たちの青春のかたちがここにあると実感した。

『小姓町の噂』は、『別冊文藝春秋』209号に掲載され、のちに『狼奉行』文庫版に収録された。

H丸伝奇

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幻の作品 七十数年ぶりに復活
井上修吉(小松 滋) 著
体裁:B6判 / 70貢
送料・梱包料込

故井上ひさしさんの父、井上修吉は戦前、現山形県川西町小松において薬局を営む傍ら、文学青年でもあり、作品「H丸伝奇」は昭和10年(1935)「サンデー毎日」大衆文芸第1位入選を果たしました。
しかしながら、14年(1939)わずか34歳で亡くなり、小説家として活躍する夢は断たれました。そしてその作品も、一度も出版されることがなく、忘れ去られてしまいました。
今、井上修吉の作品が、七十数年ぶりによみがえります。

井上修吉著「H丸伝奇」「プリントの書き方」復刻にあたり(pdf)

奥の細道を辿る絵巻

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長野亘(ながの・わたる) 著
体裁:巻物
送料・梱包料込

 

絵巻について

『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。……予もいずれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず……』
そんな書き出しで始まる芭蕉の代表作『奥の細道』の足跡を2年の歳月をかけて辿り、そのエッセンスを自ら筆をとった書と絵で綴った“絵巻”にまとめて出版したのが、元山形大学教授の長野亘氏です。
「私は旅が生き甲斐の上に、昔から芭蕉に興味を抱き続けてきたんですね。だから、いつか機会を見つけて奥の細道を自分で歩くことで、彼の詩心を味わってみたいと。そう常々思っていたんですが、大学を辞めてようやく自分の時間が持てるようになったので出かけたんです」

 

300里を2年がかりで

その行程は『行く春や鳥啼魚の目は泪』矢立て初めの句で知られる千住の地から栃木、福島、宮城、岩手、山形、秋田、新潟の各地を巡り、さらに石川、福井を抜けて『蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ』の結びの句で知られる岐阜の大垣に至る3000里に及ぶ長大な旅である。
「もっとも、私たちは列車などの交通機関を使っての現代的な旅だったし、日程も飛び飛びでしたから。その点は『前途3000里のおもひに胸ふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ』と記している芭蕉の時代の、大変な不安と期待に揺れる旅とは比べ物にならないほど楽なものだったとは思うんですけどね」とはいえ、80歳の高齢を押し、時に人跡の跡絶えた山路に分け入る奥の細道行脚の旅は、途中、長野氏の2ヵ月の入院を要する大病を強いたらしい。おかげで、当初は1年の予定が、倍の2年以上にわたる旅になり、奥の細道の結びの地である岐阜の大垣に立ったのは平成4年の7月のことだったという。
長野氏は、行く先々で句碑を中心にスケッチを描き、芭蕉の時代に思いを馳せながら、その感想を書き留め、自身も句を詠んだ。

もともと長野氏は美術が専門で、俳句にも造詣が深い。大学では美術 理論を教える傍ら、アトリエで絵筆を握ってきたし、「野の会」の同人として“寂”の俳号を持つ人でもある。「シルクロードを中心に、外国も随分旅してきたし、私はどこへ行っても、必ず絵を描き、記録を書き留めて資料に残しておくんです。ただ、最近は年のせいか、さすがに外国の旅は辛くなりました。その意味で専門の絵と趣味の俳句、そして生き甲斐の旅と、この3つを同時に満足させる素晴しい道楽が、私にとっての奥の細道だったんですよ」 成果は長野氏の書いた『私の辿る奥の細道/句碑を訪ねて全行程』(共同出版)に詳しいが、その著書をベースに作られたのが今回の絵巻で、『夏草や兵どもが夢の跡』『五月雨をあつめて早し最上川』など、芭蕉が各地で詠んだ有名な俳句30点を長野氏の書と絵で紹介しながら、解説を加えたものだ。

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作者:長野 亘(ながの・わたる)
1909年福岡生まれ。山形大学教育学部教授・山形女子短期大学教授などを歴任。俳誌「野の会」「雪舟」同人。平成2年5月から2年の歳月をかけて芭蕉の『奥の細道』の足跡を訪ねて歩き、自らの書と水彩 画に託した絵巻「奥の細道を辿る」を出版。藍綬襃章受章

(取材・文/佐藤俊一 サライ 1994年第11号より)

 

奥の細道とは

俳聖松尾芭蕉の自筆本が、最近になり発見されて話題になりましたが、元禄2年(1689年)に深川芭蕉庵を、弟子の一人を連れて、東北・北陸を回り、歌枕を巡る旅が『奥の細道』といわれ、大垣から伊勢へ旅立つところで結びとなっていますが、150日間、距離は600里にも及んだという、とても長い長い旅で、いまだに、各所には句碑が残り芭蕉のなごりを感じることができます。

 

松尾芭蕉とは

寛永21年(1644年)に松尾儀左エ衛門の次男として誕生。18歳には藤堂藩侍大将の息子良忠に仕え、忠右衛門宗房と名乗る。 延宝2年(1674年)に江戸に赴き、4年後の延宝6年(1678年)には、俳諧宗匠になる。 40歳を迎えた芭蕉は、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』等の旅を始め、元禄2年(1689年)45歳で芭蕉庵から杉風に移り、『奥の細道』を風雅の誠を極めるために、旅したと伝えられる。 元禄7年(1694年)に『かるみ』を説き、10月12日に死去する。享年51歳。 生涯をかけて自然を愛し、風雅の誠を極めようと旅を続けて、俳句の文学的価値をこの世に見い出した、歴史的人物である。
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蕪村筆 芭蕉翁

百八十年前を今に見る 伊勢参宮の旅

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出羽から越後へ 越後から木曽へ そして木曽から伊勢へ
小山利夫 著
体裁:A5判 / 276貢

雪積もる東北の山里から伊勢へ200里の道程を歩き、諸国を旅した文政の旅人19人の楽しくも厳しい記録です。

目 次
  • はじめに……12
  • 発刊によせて 山形大学名誉教授 横山昭男……14
  • 伊勢参宮日記のあらすじ……18
  • 羽前の旅人が見た百八十年前の日本の諸国「伊勢参宮の旅日記」より……22
  • 全行程一覧(日付け順に旅の行程の記載)……56
  • 資料
    伊勢参り旅の旅籠と道程……89
  • 狂歌(旅先でうたわれた狂歌集)……94
  • 当時の城主及び石高……96
  • 巡礼した寺社……98
  • 伊勢参り経費一覧……100
  • 奈良までの距離……101
  • 当時の町の家数状況……101
  • 関所、番所名(通過記録してある所のみ)……101
  • 旅した地図……102
  • 日記の原文から現代文への書き下しと現在の状況……103
  • 「伊勢参宮の旅」の調査にご協力を頂いた関係先と関係者一覧……267
  • あとがき……272

 

「発刊によせて」より

本書の最大の特色は、道中記の解読とともに、道中記に記された地名が現在の行政区のどか、宿・名所・追分などが今どうなっているのか可能な限り現地を確認した編者の記録です。本書を読まれる読者は「道中記」に関心のある方ばかりでなく、現在も残る名所・旧跡の写真とともに参考にするところが多いと思います。

千歳(ちとせ)のしらべ

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阿古耶姫物語と中将姫物語が漫画になった!
松本るい 著
体裁:A5判 / 71貢

目 次
  • 千歳物語によせて・序文……1
  • あこやの松……5
  • 中将姫物語……29
  • 『千歳山の伝説『阿古耶の松』……59
  • 旅の記・千歳山の巻……63
  • ひとりごと……64
  • ふんとー記……65
  • 千歳山物語によせて・後書き……71