奥の細道を辿る絵巻 (aky-0001)
長野亘(ながの・わたる) 著
体裁:巻物
送料・梱包料 当社負担
『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。……予もいずれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず……』
そんな書き出しで始まる芭蕉の代表作『奥の細道』の足跡を2年の歳月をかけて辿り、そのエッセンスを自ら筆をとった書と絵で綴った“絵巻”にまとめて出版したのが、元山形大学教授の長野亘氏です。
「私は旅が生き甲斐の上に、昔から芭蕉に興味を抱き続けてきたんですね。だから、いつか機会を見つけて奥の細道を自分で歩くことで、彼の詩心を味わってみたいと。そう常々思っていたんですが、大学を辞めてようやく自分の時間が持てるようになったので出かけたんです」
その行程は『行く春や鳥啼魚の目は泪』矢立て初めの句で知られる千住の地から栃木、福島、宮城、岩手、山形、秋田、新潟の各地を巡り、さらに石川、福井を抜けて『蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ』の結びの句で知られる岐阜の大垣に至る3000里に及ぶ長大な旅である。
「もっとも、私たちは列車などの交通機関を使っての現代的な旅だったし、日程も飛び飛びでしたから。その点は『前途3000里のおもひに胸ふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ』と記している芭蕉の時代の、大変な不安と期待に揺れる旅とは比べ物にならないほど楽なものだったとは思うんですけどね」とはいえ、80歳の高齢を押し、時に人跡の跡絶えた山路に分け入る奥の細道行脚の旅は、途中、長野氏の2ヵ月の入院を要する大病を強いたらしい。おかげで、当初は1年の予定が、倍の2年以上にわたる旅になり、奥の細道の結びの地である岐阜の大垣に立ったのは平成4年の7月のことだったという。
長野氏は、行く先々で句碑を中心にスケッチを描き、芭蕉の時代に思いを馳せながら、その感想を書き留め、自身も句を詠んだ。
もともと長野氏は美術が専門で、俳句にも造詣が深い。大学では美術 理論を教える傍ら、アトリエで絵筆を握ってきたし、「野の会」の同人として“寂”の俳号を持つ人でもある。「シルクロードを中心に、外国も随分旅してきたし、私はどこへ行っても、必ず絵を描き、記録を書き留めて資料に残しておくんです。ただ、最近は年のせいか、さすがに外国の旅は辛くなりました。その意味で専門の絵と趣味の俳句、そして生き甲斐の旅と、この3つを同時に満足させる素晴しい道楽が、私にとっての奥の細道だったんですよ」 成果は長野氏の書いた『私の辿る奥の細道/句碑を訪ねて全行程』(共同出版)に詳しいが、その著書をベースに作られたのが今回の絵巻で、『夏草や兵どもが夢の跡』『五月雨をあつめて早し最上川』など、芭蕉が各地で詠んだ有名な俳句30点を長野氏の書と絵で紹介しながら、解説を加えたものだ。
作者:長野 亘(ながの・わたる)
1909年福岡生まれ。山形大学教育学部教授・山形女子短期大学教授などを歴任。俳誌「野の会」「雪舟」同人。平成2年5月から2年の歳月をかけて芭蕉の『奥の細道』の足跡を訪ねて歩き、自らの書と水彩 画に託した絵巻「奥の細道を辿る」を出版。藍綬襃章受章
(取材・文/佐藤俊一 サライ 1994年第11号より)
俳聖松尾芭蕉の自筆本が、最近になり発見されて話題になりましたが、元禄2年(1689年)に深川芭蕉庵を、弟子の一人を連れて、東北・北陸を回り、歌枕を巡る旅が『奥の細道』といわれ、大垣から伊勢へ旅立つところで結びとなっていますが、150日間、距離は600里にも及んだという、とても長い長い旅で、いまだに、各所には句碑が残り芭蕉のなごりを感じることができます。
寛永21年(1644年)に松尾儀左エ衛門の次男として誕生。18歳には藤堂藩侍大将の息子良忠に仕え、忠右衛門宗房と名乗る。 延宝2年(1674年)に江戸に赴き、4年後の延宝6年(1678年)には、俳諧宗匠になる。 40歳を迎えた芭蕉は、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』等の旅を始め、元禄2年(1689年)45歳で芭蕉庵から杉風に移り、『奥の細道』を風雅の誠を極めるために、旅したと伝えられる。 元禄7年(1694年)に『かるみ』を説き、10月12日に死去する。享年51歳。 生涯をかけて自然を愛し、風雅の誠を極めようと旅を続けて、俳句の文学的価値をこの世に見い出した、歴史的人物である。
蕪村筆 芭蕉翁