10・会期中のにぎわい

会期中の入場者数の把握については、きわめて原始的というか入場した人にパンフレットを配布し、その減った数によって算出いたしました。それによると、

 10月12日(土)200名  おそらくこれに10名位プラス
    13日(日)350名  おそらくこれに50名位プラス
    14日(月)休館日 
    15日(火)150名  おそらくこれに10名位プラス
    16日(水)230名  おそらくこれに20名位プラス
    17日(木)190名  おそらくこれに10名位プラス
    18日(金)130名  おそらくこれに10名位プラス
    19日(土) 70名  おそらくこれに10名位プラス
で合計1320部のパンフレットが配布された訳ですが、特に12日の午後や13日については、団体で何十人かどっと来場し、パンフレットを一人一人配る時間のないうちに一巡しただけでどっと退場するという人たちがたくさんいたり、用意したパンフレットがなくなったりして、これらを入れると優に1400人は越えたのではと思います。こういった団体の人たちは、県外からバスで来場し、30分なら30分間自由時間で急いで文翔館の中を回って帰っていくといった人たちなのではなかったのかと思われます。入場者にはできる限り芳名録を置いて書いてもらうようにいたしましたが、以外にも県外の観光客が多く書いてくれて、北は北海道から、南は鹿児島県まで、さまざまなところから来場者がありました。また、父や私にゆかりのある方々も多く来場いただき、中央印刷株式会社の何十年か前のお客様がひょっこり入ってきたこともありました。

とりわけ、13日の日曜日が入場者も多く、最も多忙となりました。ちょうどその時、文翔館前においてボランテイア関係の大きいイベントがあり、天気がよかったことも幸いしてそれを目的に来館し、ついでにのぞいてみようという人も多かったはずです。何はともあれ来場者がひっきりなしの状態となり「なつかしいなあ」という人々の声で会場はみちあふれました。年齢的にも年配者ばかりでなく若い人たちも多く、特に、サザエさんをはじめとするテレビ台本に若い人達の興味が集中したようでした。
 時間的なことを申し上げますと、文翔館が開館するのが9時からであり、最初に事務室で入館の登録をし、係員バッジと部屋の鍵をもらい、お茶道具やいろいろなものを用意して部屋を開けます。そして看板を部屋の前に出して9時20分くらいになります。そして、いよいよ開館です。12日・13日の土曜・日曜日については、私と父、母の3人が来客の接待にあたりましたが、平日については父が朝に来て昼食時に私が交代するというやりかたをとりました。また、遠方からお客様が来た場合、私が送り迎えをするというやり方をとりました。終わりについては、4時30分を過ぎると文翔館自体に入場者を入れないようにする為に、その後はあまり入場者は期待できないということもあって、また5時にはあとかたずけが終了して退館しなければいけないことも手伝って4時30分になった段階で看板を部屋の中に入れて部屋の扉を閉め、5時前には出るようにしました。
会期中の主な入場者としては、10月15日にわざわざ東京から来ていただいた玉田武子さん・ショーワの辻常務さんと17日に横浜市から来ていただいたガリバーの中島社長さんです。玉田さんについては、前もって案内を出した段階で15日にこられることがわかっていたために「つばさ」の到着時刻に山形駅に迎えにいきました。玉田さんとは、7月5日以来3か月ぶりにお会いしたのですが、その間手紙や電話でいろいろとやりとりしていたせいもあって、お会いするのが2回目という感じは全くありませんでした。15日は平日ということもあって、そう入場者も多くなかったこともあり、展示品の1つ1つについて説明をした後に文翔館全体を30分以上かけてゆっくりと案内しました。文翔館をあとにした後に、帰りの「つばさ」まで時間がありましたので、ついでに会社を見ていただこうと思いお連れしました。その時、会社の倉庫に展示できなかった機材がいくつかありました。特にヤスリ版については、同業者からもらい受けたもので、全く使っていないものが何枚かあり、玉田さんからヤスリ版が現在どこも製造していなく入手が困難というこてを前に聞いていたので「使って下さい」ということでさしあげました。寄贈者から「今やっている人がいたら、差し上げて下さい」と言われていましたので、歴史的遺物として展示するよりもむしろよかったのではと思っております。たまたま偶然にその日にショーワの辻常務さんと秋吉課長さんがおみえになり、辻・秋吉氏ともに玉田さんのことを知らなかったのでご紹介しました。ガリバーの中島社長は、17日に突然会場にお見えにならました。事前に何軒か県外のかたがたにも案内をお送りしたのですが、半分はパンフレットを見ていただきたいというのが第1で、わざわざ山形まで来るというと遠方の方は大変ですし、大きな期待はしていなかったのです。会場に入ってこられた時は「どこかで見た人だなあ」と思いました。まさかと思ったのです。しかし、中島社長の人並外れた大きな声を聞いてすぐにわかりました。父と中島社長とは何十年のつきあいで、いりいろとにぎやかな話しをずっと続けていました。中島社長の会社は何回か見学させていただきましたが、私の会社の何十倍もの規模であり、中島社長も「ガリ版博物館」を前々から計画していたらしいのですが東京や横浜などでは震災・戦災のために古いものはあまりなく、戦後すぐのものもバブル期の開発のためにほとんど残っていないそうです。中島社長はガリ版一つで会社を始めた創業大社長立志伝の見本みたいな人なのですが、自分のところには印刷物一つ残っていないそうです。そして、自分のことのように「ガリ版展」を喜んでいただいて逆にこちらの方が感激いたしました。3時に帰られるというので駅までバタバタとお送りいたしました。車の中で「前もって連絡もらえればよかったのに」と申し上げたら「よけいな気遣いをするだろうから、突然来て突然帰る、これが中島流だ。」と言って大声で笑っておられました。実に豪快な方でした。その他にもいろいろな方がお見えになりましたが、丁度衆議院議員選挙と丸っきり重なってしまい、当初来場の予定であった議員さんたちや、さまざまな方が来れなくなったことは、返す返えすも残念なことでした。