8.株)ショーワからの有力資料の提供と直前の準備

今年、展示会を行う上で、幸運なことがいくつかありました。その中でも最も幸運だったことが、その年1月に(株)ショーワから、イメージセッターシステムを導入したことといえましょう。むろんこの時点では謄写印刷資料館のことも、展示会のことも全く企画していなかったわけです。そもそも(株)ショーワが昔に謄写印刷資材卸の最大卸メーカーであったことは全く知らなかったし、このような展開になることは全く考えもしなかったのでした。ところが、次第次第に、勉強を重ねるにつれ、(株)ショーワの前身、昭和謄写堂の謄写印刷業界での役割が鮮明になってきて、(株)ショーワに対し、資料の貸出等の要請を行いました。そして、かなり好意的な協力をいただきました。(株)ショーワのもつ、業界では国宝級ともいうべき、資料類を提供いただいたことは、全くの幸運といわなければなりません。もっとも(株)ショーワには、6月ぐらいから再三再四、資料の提供を求めていたわけですがなかなか返事がいただけなくて、9月中旬の時点では半ばあきらめていました。しかしながら、9月末になって大量に宅配便で送られてきました。その資料は全くの寄贈品のものと、貸出し(所有権は(株)ショーワのまま)の2つに分かれておりました。

この(株)ショーワ提供の資料は、一般の方々にはあまりなじみ深いものではないのですが、かつて謄写印刷をやっていた印刷業界人にとっては、かなり貴重な品々であり、大別すると以下の様になります。

 1.草間京平氏の代表的作品(遺作も含む)

2.戦後の教則本と昭和堂月報の大部分

3.ポスター類や、多色刷りの印刷物(年賀ハガキなど)

4.作品年鑑(52、54年)と昭和堂発行書籍数点

3などは、かなり状態の悪いものも多かったのですが、展示会までに、父親が裏打ちし、きれいにしたせいで、かなり見ばえが良くなり、展示に足るものとなりました。わけても草間京平氏の「見返り美人」は「軽印刷全史」の冒頭にも掲載されたほどの逸品でしたが、提供を受けた時の状態は丸い筒に押しこまれていたような状況であり、修理が大変だったようです。そしてまた、同じ草間京平氏の代表的な作品となっている復刻油絵「苺と三宝柑」についてのエピソードをお話ししましょう。

(株)ショーワから資料の提供を受ける2、3日前、リョービイマジクスの小松氏と仙台市でかなりガリ版印刷をやっていたという渡会光一氏に出向き、渡会氏の所有する資料を展示会の期間中だけという条件付きで借りてきたことがありました。その時初めて「苺と三宝柑」を見ました。その時の渡会氏の話では、「今から20年以上前に草間京平氏が亡くなった時香典を送ったところ香典返しとして送られて来た。草間京平氏の遺作とのことだった。」という。現物を見ると、ふつうの油絵と同じように表面が盛り上がっており、絵に簡単な額がかかっているものでした。小松氏とその後いろいろと検討した結果「謄写版印刷で、いかに名人といえども、これほど盛り上がった印刷はできない。」という結論に達し、展示は見合わせることにしました。ところが、(株)ショーワ提供の資料にも全く同じものがあるではありませんか。その後いろいろと調べていくと、正真正銘の、昭和36年位に草間京平氏が謄写版で印刷した「復刻油絵」と判明し、10月の文翔館展示会では、1つだけ展示したのでは、誰も信じてくれない為、(株)ショーワ提供のものと、渡会氏提供のものと2つ並べて展示いたしました。現品は合計2,000枚印刷され、昭和謄写堂と、王冠ヤスリ工業を通じて全国の好事家に頒布されたようです。そして草間京平氏没年(昭和46年)の後、保存されてあった、原版をもとにまた何百枚か印刷され「遺作」として頒布されたようです。草間京平氏は戦前戦後を通じて、謄写版印刷の大名人として神様の様に言われた人物なのですが、本人は自分の作品を「自分が出したクソの様で嫌いだ。」ということで全く保存・保管をしない人であった為に草間氏の作品はまとまっては残っていなく分散・散失している状況となっています。大名人草間氏の作品を1ヵ所に集め、展示できればどんなにか素晴らしいことなのでしょうけど、没して25年以上になりかなり困難なことでしょう。全国読者で、草間京平製版の作品をお持ちの方がおられれば、ご寄贈いただければ幸いです。

戦後の謄写版資材の販売店としては再三名前が出ている昭和謄写堂(現(株)ショーワ)と、堀井謄写堂(現ホリイ(株))、林商店(現テクノハヤシ(株))の3社が大手であった様です。そのうち、昭和謄写堂については今ふれました。堀井謄写堂は7月に行った東日暮里のビルの外に、本社が神田にあり、ここにはかなり古いものから残っているようです。しかしながら見学する機会がなく、確認するには至っておりません。林商店(ハヤシ、ブランド名はホース)について言えば、現会長林 実氏とは、かなり以前から世話になったこともあり再三、資料の調査を依頼したのですが、全く残っていませんとのことでした。私が大学に入学した頃(昭和54年)に、ハヤシ本社に行った時には、当時の榎本専務も健在であり、7~8年前に本社を建てかえした時までは雑然としていたので、資料・資材ともかなり残っていたのではと思われます。おそらく建てかえの際、ほとんどが廃棄され、今は全く残っていないと思われます。10年前に、この様な道楽を思いついていれば、かなり集まったのではと思いますし、東京に在住していた時(昭和54~61年)にハヤシ本社には何十回も行きましたし、林 実会長にも何十回もお会いしていただけに、今考えてみると残念なことです。

謄写印刷の歴史についてや、現状については、志村章子他者の前述「ガリ版文化を歩く」と「ガリ版文化史」が発行されております(新宿書房刊)。たいへん素晴らしい著作ですので興味のある方は、そちらを読んでいただければと思います。そこで詳細については省略いたしますが、謄写印刷関連の収集した機材の主なものをあげると、

○鉄  筆……須坂鉄筆・堀井・ホース

○ヤ ス リ……堀井・大島(シャチ)・王冠・キング・プラス・富士・ワッセル

○ろう原紙……堀井・四国謄写堂・ホース・荘内謄写堂他多数

○修 正 液……アジア

○定規・カットプレート……昭和謄写堂・ホース

○印 刷 機……堀井・ホース・シャチ・富士・理想

○イ ン キ……ホース・堀井・女神・理想

○タイプ原紙……ホース・堀井・荘内謄写堂他多数

○輪 転 機……Geha(旧)・Geha(新)・Gestetner(手動)・Gestetner(電動)・Duplo・学研

その他にもメーカー名が不明なものも多く、特にろう原紙については山形県内の文具店等のブランドを付したものが多く見られました。

10月も初旬になると、もう秒読みの段階に入ります。相川精二氏からの戦前資料、謄写印刷機や、酒田の荘内印刷杉山社長から頂戴した大正年代の謄写印刷機など、古い物も集まり始め、いよいよ会場準備に追われるようになりました。ここで一番困ったことは、会場(文翔館第5ギャラリー)は、貸出している期間以外は、鍵がかかっていて普段は見れないことです。文翔館事務局に打ち合わせに行った時には、見せてもらうのですが、どうもボリューム感がわかりません。大体のレイアウトを考え、とにかく集まった資料のうち、本類、印刷物については、特殊な借り物以外は全部展示する。印刷機資材については、全部でなく選んで特に目立ったもの(特に古いか、大きさやメーカー等を見て珍しいもの)のみを展示し、「展示スペースの関係上全点展示できないことをお詫びいたします。」という札をたてて対処する。ということにし、とりあえず輪転機のうち2台以外は、会社に置いておき、その他はすべて車に乗せて展示できないものについては、文翔館に行ったあと、岳風会会館4階に運ぶということにしました。

途中「会場で実演をやったら」という意見もあり、原紙を切ってもらい、その原版から来場者に実際に印刷してもらう計画をたてました。しかしながら、会場文翔館は、国指定重要文化財ということもあり、以下の理由から見送られたのは少し残念でした。

1.インクを使用するにあたって、現在のインクに灯油をまぜなければならず、火災予防上まずいこと。

2.床や机などがインクで汚れた場合、責任問題になってしまうこと。

3.素人が印刷して場合、来場者の衣類が汚れる危険性が大きいこと。

4.印刷原版のろう紙を切る製版者がいないこと

展示会直前になると会場に提示する下げ札や当日配布するパンフレット(1,500部印刷)三角柱など、小物も出来上がり、いよいよ、10月11日(金)午後に、雨の降るあいにくの天候でしたが、物資の搬入となりました。何事もそうですが、始まるまでは不安と緊張が入り交ったような感じになるのですが、いったん始まってしまうとあっという間に終わってしまうものです。1時半に始めた搬入作業も3時にはあらかた終了し、その後は細かな資料の並べ方など私と父の2人で行い、その日はビデオ撮りを行ったあと全体をながめて見ました。約半年間かけて必死に取り組んだ成果がいよいよ始まると思うと思わず胸が熱くなるのを感じました。

 実際は金曜日は準備段階の日なのですが、扉があいていて、物が並んでいる為に、入ってくる人も何人かいて「明日から始まります」とことわっていましたが、追い出す訳にはいかず、最終的な確認作業をした後にそれらの人々が出ていったのを確認して、搬入の作業を終えたのでした。