7.

戦前印刷物と格闘する9月中旬のある日のことです。鈴木氏が、わざわざ品物を持って来社するということで、朝から待っていました。そして会社の社長室に持ちこまれたのが、2つの汚いダンボールです。鈴木氏の話によれば、父親が宮内町(現南陽市宮内)で戦前に謄写印刷業をやっており、けっこうまめな人で、自分の製作したものを取っていたそうです。それは、ダンボールにして7箱分ぐらいあったのが、整理したり捨てたりして2箱分しか現在は残っていなく、それも雨もりのする小屋に入れていたので、カビているのが多いとのこと。今になってみればよくぞ残っていたという反面、この3倍以上あったというのは惜しい話です。鈴木氏から見せられた時には、正直なところ汚くてさわるのもちょっとという感じでしたが、1つ1つ見てみると、その内容の凄さに思わず胸が熱くなる思いがしました。鈴木氏は、いつかは公開したいつもりで残していて、特に南陽市で展示会をやりたい意向でした。そこで、私の方で全部整理して、しばらくは山形謄写印刷資料館でお預りする。文翔館での展示会のメインの1つとして展示する。2、3年中に、南陽市の公的施設か、銀行ロビーで展示会を行う。ということを約束して、様々な雑談の後、鈴木氏は帰られました。

その日の夜から、ずっと戦前の印刷物との格闘が始まりました。鈴木藤吉氏(冬吉というペンネームで「謄写研究」に文章を載せたこともあります。)は、以下の様な人物であった様です。

○宮内町(現南陽市宮内)において、昭和5年~20年頃に「北陽謄写堂」(あるいは北陽堂)という名で謄写印刷を行っていた。

○置賜地域の文化的知識人とかなり交際があり、地域の短歌誌や文芸誌を発行していた中心人物であった。(今でいう同人誌が何冊もありその中には浜田広介氏の詩がのっているものもあります。)

○昭和6年~10年位に、宮川良氏の設立した「日本謄写芸術院」の会員であった。(機関誌「謄写研究」に何度か、文章が掲載されています。)

・戦後は文具商に転じ、ホクヨー文具を設立(現在は(株)三和という名の文具店で、南陽市でかなり大きな文具店のようです。)謄写印刷は趣味でいろいろな人に教えていて、昭和30年代の制作した教則本なども残っています。

そして、2つのダンボール箱の中を大別すると、以下の様に分類されます。

1.昭和3~4年頃の「北條謄写堂」製作のチラシ類 約40枚 

2.昭和5~15年頃の「北陽謄写堂」製作のチラシ類 約400枚

3.昭和5~20年頃の「北陽謄写堂」製作の文書、ハガキ、名刺 約200枚

4.昭和5~20年頃の全国同業者製作のチラシ類(ごくわずか数枚) 約10枚

5.昭和5~10年頃の「日本謄写芸術院」制作美術印刷、カット見本 約400枚

6.昭和5~10年頃の堀井謄写堂製作(おそらく草間京平氏)美術印刷 約30枚

7.昭和5~10年頃の広告カット見本、スクラップブック 3冊

8.昭和5~15年頃の同人誌、雑誌 約50冊 

おそらく想像として4、6、7がもっとあったのが、時代と共に散逸して、最終的には2と5を中心に残っていたと思われます。名刺1枚を1点に数えるならば全体で2,000点を超える数量があったわけで、これらの整理・保存の作業に一週間以上を要したのです。

一番最初にファイルブックを購入。そこに1点1点上記1~8の分類をもとにファイリングを行いました。日中このような事をやっている訳にはいかない為、その作業は、ほとんど夜中でした。何しろ、何十年も手つかずであったものですから、カビとホコリがもの凄いのです。作品にしても何枚かさわると、すぐに指や手がまっ黒になります。それでも、1枚1枚丁寧に、ファイルに入れていきます。最初は1~8の分類後、特に2の「北陽謄写堂製作チラシ」については、業種ごとに分類し直し、2枚以上だぶっているものについては、別にする予定でしたが、そこまで時間的な余裕がなく、展示会となってしました。また、地域的には現南陽市内が大部分、長井、高畠、米沢、上山が少しということで、特に南陽市内については、チラシに名前がのっている酒店や写真館など現在も営業しているか調べれればと思っております。

2,000点を超える資料をまっ黒になりながら整理することは、大変根気のいる作業でしたが、それらの1つ1つは、実に素晴らしいものが多く、チラシで言うならば、そこに表現されているイラスト・文章からは、研究に研究を重ねて創造している筆耕者の苦労がにじみ出ています。これらの文字は、全て右から左の戦前スタイルで、文字も現在逆に注目されているレトロ文字が大部分です。これら一つ一つをながめながら作業を行っていると、時間のたつのを忘れてしまう日々が続きました。また「日本謄写芸術院」制作の莫大な作品群。中にはひどくカビているものがありましたが半分以上は状態が良く、色も全く退色がありません。奇跡的ともいうべき保存状態であり、小針氏も尊敬する草間京平氏や、宮川良氏を中心とした当時の謄写芸術家の作品群を前にただただ驚嘆の日々でした。

また、戦前の文書、ハガキ、名刺を1つ1つ見ていくと、次第次第に戦時体制になり、戦争に突入、やがて終戦という日本の流れが庶民レベルにおいても同じであり、これらの品々は、歴史の生証人という気がいたします。たとえば、挨拶ハガキ一つにしても「入隊しました」「除隊しました」といった内容であり、地元銀行のハガキには「軍艦も飛行機も戦車も、貯蓄から」といった貯蓄奨励のものもあります。また「大東亜共栄圏実践要項」や「皇国運動(やまとばたらき)」といったものや「出征兵士ががんばっているので私もがんばっている」という内容の食堂主人の文章など、興味はつきません。これらの鈴木氏提供の資料の最後は奇しくも昭和20年9月のもので「新生日本の為にがんばる」という内容の文章です。これが最も中では新しいものであり、唯一の戦後に作られた印刷物でした。10月の文翔館での展示会直前になって米沢市で文具会社をやっておられる相川精二氏が、戦前の印刷物と大正14年製の謄写印刷機を持ってこられました。相川氏の資料は全てファイリングされ、整備されたものでした。鈴木氏と相川氏から提供いただいた資料は、残された数少ない戦前の印刷物であり、山形県の庶民文化を語るうえでますます貴重なものになるでしょう。これによって、明治からずっと続いていた謄写印刷を語るうえで、全くなかった空白部分である大正から昭和初期、戦前という領域が埋まってきたのです。

新聞に掲載になる前はごく内輪の人たちだけに見せて終了するというぐらいにしか考えていなかった訳ですが、これだけ大々的に新聞に掲載となり役所の後援をもらった以上「半端では出来ない」という意識が強くなりました。それはあせりにもつながっていました。しかしながら、鈴木氏の資料を見ていて今までのような「はたして開催できるのだろうか」という不安は全くなくなり、いよいよ本番まで事務的作業に移っていったのです。