6.マスコミ報道とその反響

会期・場所が決まって、次にやらなければならないことは、広報です。広報については、JCでやったイベントの方法が、大いに役に立ちました。一つイベントを組むにしても、だまっていたのではだれも広報してくれません。広報の手段としては、次の3つがあげられます。

1 マスコミに対する取材のアプローチ、業界誌等専門誌に対するアプローチ

2 官公庁に対する後援、あるいは共催の依頼

3 口コミ等による広報活動

そしてマスコミ各社に対する「取材依頼文」を作成、同時に官公庁向けの後援の依頼文を作成、8月22日より実際の行動に移りました。それまでに取材・後援依頼用に持参するパンフレットを作成、これは後援団体を入れれば会期中に使えることを意図としたものでした。

本当のところ26日より、マスコミ官公庁に対するアプローチを行う予定でした。いきなり行くより前もってアポイントをつけその上で、と考えていましたので、21日に最初に地元放送局のアナウンサーと地元選出の市議会議員に相談しました。するとアナも議員も「いい話なので、なるべく早い方がいい。」ということで、急遽22日から回り始めました。

22日、一番最初に知人の放送局アナウンサーに行きました。多色印刷や文集などを見せ、10月12日から文翔館で展示会をするのでTVやラジオや新聞でとり上げてくれないかと頼みました。山形新聞社の編集局や記者、山形放送の上の方を紹介してくれて、いろいろとガリ版についての話をしました。ただ予想外であったのが、そのあとに、市役所に行って会社に帰ったのが、5時半ぐらいだったのですが、山形新聞社を出た(3時少し前)あとすぐに編集局長から「すぐ行ってこい。」という命令があったらしく、黒田氏という記者がさっそく取材の為に来社したことでした。父が応待したのですが、あまりに急すぎるし、説明する時の代表的材料が私が持ち歩いていて準備不足であったことは否めません。それでも父の話では、山形新聞社の記者も、後日同様に取材の為来社した読売新聞の記者も、25歳ぐらいの若い方で、ガリ版のガの字も知らなかったそうです。そして最初から説明し、1時間半あまりも、説明に時間がかかったのこと。しかしながら新聞記者もたいしたもの。いずれもずっと前から知っているような内容の記事になっているのには驚きました。

3時に、市議会議員と市役所の入口で待ちあわせをしていましたので、放送局のあとすぐに行きました。市役所では合計3つの課を回ったわけですが、いずれの場合にも、課長か課長補佐の方が応対に出てこられ、若い頃に昔ガリ版をやっていた人たちであり、原理とかそういった説明は全くいりません。むしろいろいろな昔話に花が咲いて、30~40分あっというまにたってしまうのです。逆に私なぞは、そういった人たちから教えられることも多く、以前にガリ版をやっていた人たちを回った時と全く同じ、熱い視線を感じとることができました。「その場で後援の申請を書いていけ」というわけで、全てが順調に終了いたしました。県庁や、県教育委員会に後援依頼に回った時も、同じように全て順調に事が運びました。

翌日、最初に朝日新聞、次に読売新聞の支社を訪問いたしました。これは、山形新聞・放送や市役所とは違い、全くのアポなし訪問。山形新聞社でかなりの感触をつかみましたのでこの際、あたってくだけろで勢いで行ったようなものです。朝日新聞の場合は、説明すると即先方から逆にいろいろ取材を受け、読売新聞の場合、2~3日後に記者が来社するかもしれないということでした。その時に主に取り上げてくれるように頼んだこととして、

1 文翔館で10月12日~19日に展示会をやること。

2 ガリ版の資料を集めているので、退蔵している人々に寄贈を呼びかけていること。

3 全国的に見ても資料館は松本市にあるだけであるし、展示会も、2年前に東京であっただけであとは全く無いこと。

この3点があげられます。

各新聞社も、物珍しさや内容の面白さにひかれたのでしょう。かなりの紙面スペースをさいていただきました。その他にも「ニュープリティング」や「ジャグラ本部」に対しても取材、後援の依頼を出し、「ニュープリティング」誌には、かなりのスペースをさいていただきました。

新聞の効果はかなり大きいものです。93年に「奥の細道を辿る絵巻」というものを製作し全国に売り出したことがあります。この時には、山形新聞、読売新聞、朝日新聞、河北新報の5紙、それに加え、全国信用金庫協会誌と「サライ」誌に掲載になりました。特に、「サライ」誌に掲載になった時は、それから数日間は、問い合わせが殺到し、本業よりも忙しい状態となり製作物が品切れ追加生産しなければならなくなったぐらいに大変になりました。新聞の場合、雑誌と違い、掲載日から2~3日にどれだけ反響があるか、勝負なのですが、この場合も例外ではなく、県内各地から「材料があるので送る」とか「取りに来てくれ」とか、3紙あわせて十数件の情報が寄せられました。この中でも一番印象に残ったのは、鶴岡市に住んでいる森様という女性で、御主人様が何年か前に亡くなって「遺品の中にガリ版の機材や印刷物があるので、お役に立てればさし上げます。」という内容の御手紙をいただいたのです。返事を書いたところ、「子どもたちも父親の形見の品が役に立ってよろこんでおります。」という文面の手紙と一緒に現物が送られてきました。私はこの時には思わず目頭が熱くなる思いがいたしました。そしてこの時ほどこれをやってきて良かったと思ったことはありません。その方より丁載したものは、その後の収集物に比べればとりわけ珍しい物ではありませんが、どうしても情が移るのでしょう。文翔館の展示会にしても、山形銀行の展示会にしてもかなり目立つところに並べたつもりでおります。しかしながらいずれもご案内はしたのですが、森様御本人は来場いただけなくて、今でも残念な気がいたしております。

もう一つが、ガリ版資料展の中でも、小針さんの高級美術印刷、玉田さんのTV用台本、⑭ショーワ提供の資料類と並んで、メインの一つになった鈴木健二氏所有の戦前に作られたチラシや日本謄写芸術院製作の美術印刷の数々が入手できたことです。

新聞に掲載された日から、数日たった頃のことです。上山市にいる鈴木さんという方から「父親が戦前に謄写印刷業をやっていて、印刷見本がダンボールに入っている」という電話が入りました。新聞を見て紙卸会社の常務さんに問い合わせをしたところ「良心的な会社だ」ということで紹介していただいたということでした。何しろ、戦前のガリ版の印刷物に関しては古本目録で購入した陸奥宗光著「蹇々録」(明治30年代のものとされております)1冊しかなく、「ガリ版100年」をうたっている割には全くお粗末であり、何とかして戦前の印刷物が入手できないものかと思っていた矢先でありのどから手が出る程ほしい情報でした。そして、鈴木氏がわざわざ持って来てくれるということで、その日まで楽しみなこと楽しみなこと。9月中ば近くとなり、そろそろあと1ヵ月を切ってあせりが見え始めた頃にガリ版というよりも、むしろ山形県の文化的に見ても貴重な財産ともいうべき「お宝群」に、めぐり逢う日がやって来たのです。