4.いよいよ上京

 7月5日上京の当日は朝から大雨で、東京に着いてもやはり大雨でした。東京駅に着き、事前に教えてもらった小針宅へ行きました。浅草橋までJRで行きそこで京成線に乗りかえいくつめかの「曵舟」で降り、それから歩くこと10分余、目差す小針宅が見えてきました。小針氏は、私が思っていたより若い感じの人で、(五十年も謄写版をやってきたということで、80歳を超えている思っていましたが、実は今年70歳で私の父よりも年下です。)「どうぞどうぞ。」ということで、邸内に招き入れられました。そしてガリ版に対する思いや資料館に対する構想について、素直なところをぶつけてみました。

小針氏は数年前までは、謄写版でやっていたが、今はリソーアートセリグラフ(新孔版画といって、大型のプリントゴッコと同じシステムでの印刷であり、小針氏は現在新孔版画協会会員として活躍しておられます。)でやっていることや、また昭和謄写堂に長くいて「月報」を長いこと作っていたこと、また、理想科学工業の社内報「理想の詩」に定期的に謄写印刷の歴史等について連載していること。謄写印刷の技術的なことなどいろいろとお話しいただき、その作品の数々を見せていただきました。これが「謄写美術印刷」に対する初めて見る経験であったのです。
今まで「ガリ版」というと1色刷りの黄ばんだ本という意識がどうしても強かったのですが、一枚一枚、名人芸的「謄写美術印刷」を見ていると、その一色一色がやわらかできれいで、今の四色カラーの印刷物がカスに見えてくる程素晴らしいものに見えてきました。そして、謄写(小針氏は、ガリ版という言葉が嫌いなのでしょう、決して使わなかったでした。)印刷のもつ奥深さを体で感じとりました。

私が、あまりしげしげと見ているので、小針氏も一枚しか持っていないものは譲れないが、二枚以上あるものは譲りますということで十何点、今考えればもう絶対に入手できないのではと思われる山形謄写印刷資料館でも最大の宝物の一つである作品群を丁載することができました。そして、小針氏の父親が福島県の生まれの人でわざわざ山形から来たことについて感動してくれて、予定時間(30分)を大幅にこえ昼食までいただいて、1時ぐらいまで小針宅にいました。
最後に聞いたこととして、草間京平氏が考案し試作品まで作ったが、最終的に商品にならなかったプラスチックのヤスリと、真ちゅうのヤスリ(「ピンホールヤスリ」という名称で地紋の製版用に売り出されたのですがヤスリ盤としてや還元製版用として作られたものは、試作品だけで終わったようです。)を見せていただきました。「草間先生より頂戴したもので、おそらく全国見てもここぐらいしかないだろう。」とのことでした。奥様は謄写印刷にはあまり関心のない方で、「主人が死んだら、みんなあるものは寄贈しますよ。」と冗談を言っていました。実際のところ、謄写印刷をやっていた人が亡くなった場合は、遺族は全く関心がないか、むしろ汚いものとしてか扱わず、機材や印刷物は「ゴミ」として捨てられるのが一般のようです。いろいろと訪問した方の奥様は全く関心がない場合がほとんどでした。
小針氏は、まだまだバリバリの様子なので心配はありませんが(8年12月に第3回新孔版画コンクールで大賞を受賞され9年には日本ホビー大賞キャリア部門賞を受賞されるなどますますご活躍のご様子です。)小針氏亡き後、作品群がどうなるか、心配なところです。

 「不二プリント商会」は、鴬谷駅より歩いて5分ぐらいとのことでしたので、JRで鴬谷駅で下車、ずっと歩いて行きました。10月に再訪したときは曇りであり、2回目だったこともあり、かなり近く感じられましたが、この時は大雨でなおかつ、小針宅を出た時よりも凄い降り様です。もの凄く駅から遠く感じられました。

しばらく歩くと「ガリ版文化を歩く」にのっていた「不二プリント商会」が見えてきました。前もって連絡していたので、玉田武子さんは待っていたようでした。これは後日談になるのですが、テレビの台本をくれという人はたくさんいて、よほどの人でなければ渡すことはないとのことです。後で考えてみると、全く見ず知らずの人に行ってもらって来るというのは、ずい分とずうずうしいことをしたものです。また、裏を返せばそれだけ「謄写版資料館」に対する皆様の期待が大きいものであったのでしょう。玉田武子さんは本にのっていたのと全く同じイメージの人で、話し方のやわらかい人だという第一印象がありました。その前に小針美男氏の自宅に行った話をし、もらったばかりの作品を見せたり、また小針氏に言ったのと同じように、謄写版資料館についての構想や、ガリ版についての考えなりをぶつけました。そうすると「サザエさん」をはじめとして何冊ものTV用台本を出してくれました。いつも作っているだけあって「いくらでもありますよ。」といった感じです。小針氏の時には過去の大切な作品を見せてもらったという感じでしたが、不二プリントの場合、ガリ版は今も生きていて、こうして今も作っている人がいるということについて、別の意味で感銘をうけました。玉田さんも、あまりに私が感動したようなので逆に感激してくれて、台本の印刷についてのことや、ガリ版についてのさまざまなことをお聞きしました。
今一番悩んでいることは、材料、特にヤスリ板がないことで、堀井のヤスリ板を十何年今後使えるくらいに買ってあるとのこと。そして、印刷は手刷りではなく、比較的新しい輪転機でやっていること、またTVの台本は、絵コンテを原稿にして普通2~3日で1冊(約50~60P、ものによっては200Pぐらい)を仕上げなければならないことなど、さまざまなことをお聞きしました。以前、TVの台本を見たことが1度もなかったのが、これを見ただけでも興味深かったのに裏話をきくとよけいに興味が増します。

 近くに「ホリイ」の支社と「須坂鉄筆」があるということで、わざわざ電話してくれて、場所を教えてくれました。最初に「ホリイ」のビルに行ってみました。かなり新しくて大きなビルで、中に入りいた人にガリ版資料館のこと、玉田武子さんのことなどを話ました。すると、担当の人が親切で展示してあった「ホリイ謄写輪転第1号機」(明治43年)を見せてくれました。そしてガラスケースをわざわざはずして、写真をとらせてくれました。

また、「ホリイ」が創業100年の時に作った社史が4冊ばかり余っているとのことで、1冊分けてもらいました。その社史が節約したのか、編集する時間がなかったのか、荒俣宏氏の著作の中に12頁ほど、堀井新治郎についての記述があり、荒俣氏の著作の前書・奥付とカバー、ハコだけさしかえて作ったという代物で、それでも全く初めて訪れた人にくれるのですから、感激でした。

 そのあと「須坂鉄筆」に行きました。入口はずい分と古い感じで、入ると初老の婦人がいました。今までただでもらい歩いていたこともあって趣旨を話し、資料館を作る話をすると「どれがいいですか」と言ってきました。てっきりただと思ってしまったのが大間違い。「これとこれと」と選んで、その婦人に出すと、しばらくして何千円かの請求書、今さらやめる訳にもいかず、これでも通常より3割引きとのことで、代金を払って出て来ました。帰りに玉田武子さんに寄って、大雨の中TV台本の山をかかえ、走って鴬谷駅へと行きました。

 初対面の人でも筋の通った話をまじめにすれば、暖かく迎えてくれる下町の人々の気質が、私は大好きです。東京に住んでいた頃、私も7年程下町に住んでいましたが、改めてその当時のことが思い出され、なつかしさも感じられたのです。

 翌日の朝、前もって調査していて飯田橋駅前で朝8時半から、「ヲムラ古道具市」というのを第一土曜日にやっているということを知り、早くより出かけました。流石に朝早いだけあって、客もまだ無く、業者も40業者ぐらい準備中の人々もいました。いくつもいくつも出店を見て回りましたが、あまり良いものがありません。そうしているうちに、最後の業者に来てしまいました。それが古本を中心にしているような業者、探すと古い東京関係の本が出てくる出てくる、その中にガリ版刷りの本がたくさんありました。
昭和25年の東京都職員名簿をはじめとして、全部で22冊「おじさん、全部でいくら。」「1冊どれでも1,000円。」「山形から買いにきたんだ、まけないか。」「全部で15,000円でどうだ。」「じゃ、この本つけて13,000円でどうだ。」「したかねえな。」「これもつけていいか。」「しかたねえな。」といった感じで全部で13,000円、そして最後にただでつけさせた本が、一つは「建築の東京」という戦前の豪華本で、状態が不幸にも悪すぎるのでいくら値がつくかわかりませんが、美本から1冊数万円はするという本。またもう一つは、昭和7年発行の「大東京」という小冊子。この2冊だけでも1万3,000円の値打ちはあるのではというくらいのものです。ここでも荷物が増え、重い思いをしながら、会社の人たちと10時に待ち合わせしていたので急いで会場の「有明ビッグサイト」へと向かいました。

 荷物の重さを忘れる程たくさんの「お宝」を持って、山形に7月6日に帰りました。そして翌日父親にこれらの「お宝」を見せた時の父の感激ときたらありませんでした。父のうれしがる姿を見ると、重い荷物を持って東京を大雨の中歩き続けた疲れも少しはいやされたものでした。