「謄写印刷の父」堀井新治郎の業績を紹介
謄写印刷の原型は、エジソンによる「ミメオグラフ」とされている。これを日本に合うように改良・発明したのが、堀井新治郎(元紀・仁紀)親子である。
堀井新治郎元紀(1856-1932)仁紀(1875-1962)親子略年表
1856 (安政3) |
9月11日、新治郎(元紀)滋賀県蒲生郡苗村大字駕与丁(現竜王町)にて生まれる |
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1879 (明治12) |
8月13日、新治郎(元紀)岐阜県御用係を拝命 |
1883 (明治16) |
新治郎(元紀)堀井家に耕造(仁紀)の養父として迎えられる。 (堀井家38代目を相続、旧姓菱田)堀井家は旧家で、代官もつとめ醸造業も営んでいた。 |
1893 (明治26) |
1月新治郎(元紀)は官職を退き、耕造は三井物産を退社。簡便な印刷機の研究に精進する 3月新治郎(元紀)印刷機開発勉強のため米国シカゴ万博に出発 4月耕造(仁紀)は家族を伴い土地を売却した資金をもって上京、神田鍛冶町で研究に没頭する 研究費がかさみ貧困生活となる |
1894 (明治27) |
1月新治郎親子、謄写版(鉄筆製版)を発明する。 7月新治郎親子、東京・神田鍛冶町で謄写堂創業横浜の「ジャパンメール」に謄写版の広告を出し、外国人の間で評価を得る 8月日清戦争が起こる |
1895 (明治28) |
3月謄写版原紙、特許第2499号を受ける (3月12日)大本営・陸海軍が軍事通信に謄写版を採用、大量の注文を受ける。新治郎親子、販路拡張のため全国行脚 |
1896 (明治29) |
官庁・大学・商社・新聞・通信社で使われるようになり、事業が拡大するに伴い、改良・工夫が進められる。 |
1897 (明治30) |
記念博覧会(京都)で賞杯を受ける。 3月耕造(仁紀)結婚 |
1899 (明治32) |
原紙に高知産の雁皮紙を使用、海外への市場を拡大する |
1904 (明治37) |
2月日露戦争が起こる 新治郎(元紀)病のため鎌倉に隠居(49歳) 耕造(仁紀)全般業務を継承する(30歳) |
1910 (明治43) |
堀井輪転謄写機(第1単胴式)を完成、特許第18065号を受ける定価58円 |
1911 (明治44) |
謄写堂、上海支店を開設(以後、京城・天津(後に支店)・漢口・南京・と出張所を開設する) |
1914 (大正3) |
タイプライター用原紙として、ミリアタイプ印版紙を開発 |
1915 (大正4) |
謄写堂、「堀井謄写堂本店」と改称 |
1917 (大正6) |
新治郎は元紀と改名(62歳) 耕造が新治郎を襲名(43歳) |
1926 (大正15) |
堀井謄写版、台盤移動式から原紙枠移動式に改良 |
1927 (昭和2) |
堀井謄写堂、タイプ原紙(コロジオン)を完成 |
1930 (昭和5) |
堀井謄写堂、堀井双胴式輪転謄写機を発売 堀井謄写堂、堀井超紀元式謄写版を発売 東京謄写印刷同業組合結成、堀井耕造の委嘱で草間京平ら、海軍練習艦隊新聞班の孔版技術講習会にあたる |
1932 (昭和7) |
7月19日、堀井謄写堂創業者 堀井新治郎(元紀)逝去(76歳) |
1935 (昭和10) |
堀井謄写堂、海軍・艦隊などで講習会が盛ん |
1936 (昭和11) |
堀井電動式複胴輪転謄写機完成 |
1939 (昭和14) |
堀井謄写堂、米国特許を取得 第2次世界大戦始まる |
1941 (昭和16) |
堀井謄写堂、海軍監督工場に指定 ジャカルタに謄写版工場新設、奉天・上海・京城にも工場を設置 |
1950 (昭和25) |
堀井新治郎、東京都の発明功労者として表彰される |
1962 (昭和37) |
2月18日、堀井謄写堂2代目 堀井新治郎(仁紀)逝去(87歳) 「謄写版」「ミリアタイプ印版紙」「輪転謄写機」など2代目名義の発明登録数は昭和16年までに488件、堀井新治郎親子の生涯発明考案総数は884件におよぶ |
1977 (昭和52) |
理想科学工業が家庭用カラー簡易印刷機「プリントゴッコ」を発売 |
1985 (昭和60) |
8月「ホリイ株式会社」に改称 |
1987 (昭和62) |
ホリイ株式会社、謄写版生産を中止 |
1997 (平成9) |
旧堀井家洋館を改修 |
1998 (平成10) |
4月堀井新治郎親子の業績を顕彰し「ガリ版伝承館」を開館(滋賀県蒲生郡蒲生町) ● 事業の功績により郷里の字(岡本)・村・郡・県をはじめ、官公庁や学校などに現物や現金の寄付をされているほか、明治33年より昭和17年までにその数830件に及ぶ。 |
(この年表は、志村章子さんが作成し、滋賀県蒲生町役場より提供いただいた資料をもとに作成しました。)