貧乏時代のガリ版との日々 佐藤 慶(俳優)
今、テレビや映画、そしてナレーターとして活躍しておられます佐藤 慶さんは、 知る人ぞ知るガリ版印刷の名人だった。佐藤さんは、1928(昭和3年)12月21日会津若松市に生まれた。
「私とガリ版との出会いは、 小学校5・6年生の頃、生家の蔵の中から“堀井謄写堂” 製と書かれたガリ版一式を偶然発見したことから始まります。」佐藤さんは幼いころら絵よりも文字を書くことの方が興味があり、子どもの頃から、時間割表を自分で 作って級友にくばったり、自分の書いたものが何枚もそのまま作れるガリ版印刷がおもしろくて仕方がなかったそうだ。
そうしているうちに、1946年、会津若松市役所に勤務、戸籍係に配属になった。その頃に作った印刷物が僅かですが、残っている。(写真1・2は毛筆原紙に印刷したもの。写真3は表紙)「会津若松で劇団をつくって、県の大会にでたところ、大賞をとった。市内では、凱旋公演ということでお歴々の前で披露。ここまではよかったのですが、大会に、無断で市役所を休んで出たのがわかってクビになりました。」
それだけではなかったのだろうが、役所を辞めて親の反対を押し切って上京。会津での演劇活動に限界を感じたというのがほんとうのようだ。「この頃は見よう見まねで面白い面白いということで、ガリ版印刷をやっていた頃なん です。会津で劇団作って芝居やっていた頃。これも劇団の芝居のなんかだと思います。 ここでまた別の原紙で字を入れていく。これだけ残っているんですけど。この辺のはもうひどいんです。これは家に残っていたいいかげんなやすりと、いいかげんな原紙で書いたからね、この頃は。」当時の作品(写真4)を前に振り返る。
しかしながら、俳優への道はきびしかった。親からは勘当同然のために一円の仕送りもなく、「芸は身を助ける不仕合わせ」とはこのことだが、子どもの頃から見よう 見まねで身につけていったガリ版の筆耕で稼ぐしかないと考えて、同郷の友人から紹 介してもらったのが「耕文社」という素人集団のガリ版屋であった。ここでの一番大 きな仕事は文部省検定教科書の下刷りの仕事であった。
「教科書検定になる下書きです。このことは、クイズになっているんですけどね(1991年に輝ける貧乏時代という題名でテレビ放映された。)これは表紙でこれが漢文です。つまり1ページをこの大きさに書いて、この原紙で執筆者の校正を受けて、三 校ぐらいやって、やっとOKが出て、今度は刷り専門の人がいて刷りに入るわけです。それを1冊にまとめて、送るとそれが凸版印刷とか大日本印刷とかに行って教科書に なるという方法だったんです。今はおそらくワープロでやっているんでしょうけど。 これも1枚だけ残っていたんですが、漢文はもちろん、社会、国語、数学、英語、と 色々あったんです。十何人で書いて。文字はまちまちです。工賃は1枚いくらです。 漢文の方が有利なの字はでかいし有利でした。数学とか英語なんか受け持ったら、大 変ですよ。スペル間違ったら大変でしょ。数学だったらよけい。なるべく楽なのを分捕ってね。」と当時を回想する。
その他には、会社等の会報や同人誌など仕事は多岐にわたっていた。同人誌の場合、1冊分を請け負い、B5判で1ページあたり1550字、1日徹夜でやっても7-8ページが限界であり、労賃は1字5銭であったため、1日いくらやっても500-600円にしかならなかった。画数の多い文字は特に大変で佐藤さんは今でも「憂鬱」という字を見ると憂鬱になるという。 佐藤さんの右手の中指の第一関節は他に比べて太い。本人曰く、「ガリ版だこで、刃物で切っても血が出ないくらいにかたくなっています。」葉巻のように太い鉄筆を 握り続ける指には、激痛が走り、二の腕は異常な熱をもち、真冬でも共同炊事場の水道の蛇口で腕を冷やしながら書くのが常だったという。
それでも、同人誌の表紙絵などには、特殊な絵画ヤスリを多用し多色刷り(写真5・6)を行い、「一端のプロ気取り」だった。1953年に念願の俳優座の養成所にはいった。その頃になると、筆耕だけでなく印刷・製本まで自分で行い、一番のお得意様は、俳優座演劇研究所だった。 「これは俳優座の養成所に入ったころのもので(写真7・8)、もっぱら俳優座の一手引き受けで、この頃はやっていたんです。若いグループがいて刷りを頼まれたりとか。また、授業に使うテキスト(写真9)や、入試問題(写真10)・案内状・封筒・名簿(写真11)などの印刷も行ったりしたものです。これは例の茶封筒です(写真12)名前を入れたりして。
いわゆるその活字体を、自己流で書くのが嫌いで、活字を全部印刷物から拾うんです。この位の字だと昔の漢和辞典とか。それから、でかいやつは新聞を切り抜いておいて、そういう のを作っておいて、こういうのも全部新聞から取って、辞典みたいに作っておくわけです。そこから写していくんですけど。いわゆる自己流の活字体というのがどうも嫌 いで。なるべく活版に似せたかったんです。何冊かあったのですが、今は2冊だけ残っています。(写真13)全部貼って作ったんです。昔の確か、今のじゃないんだけども、大体読売系を参考にしたんです。毎日毎日見ていて、ああこれおもしろそうだいうので、いいやつを貼って。これだけ1冊作るだけでもかなり何年もかかっています。そして、何冊かあったんだけど。今残っているのはこれだけです。」
いろいろとガリ版についての思い出はつきない。中には滞納授業料の催促状なんていうのがあり、「お宅の息子・娘がXか月滞納しているのでX月X日までに必ず納めてくれ」という内容で各保護者の許に郵送されるもので、佐藤さんの親父も見たに違いないとのことだった。
1959年、「人間の條件・第三部」(小林正樹監督)に抜擢され、その演技が注目され、それを転機に貧乏生活・ガリ版生活とも別れを告げた。だが、貧乏時代の生きる糧であったガリ版の機材(資料14)や、作品はずっと何回も引っ越ししたにもかかわらず、 捨てることができずに、保存していた。
「ワープロやパソコンは嫌いです。だって、手書きがいいもの。」という佐藤さんの書く文字は、ガリ版から離れて何十年にもなるのに、ものすごくきれいである。最後に山形県との関わりを聞いたところ、「3・4年前に、西行と芭蕉というのをやっているんです。山形放送の制作で。西行がずっーと吉野とかいろいろ歩いたでしょう。その後を芭蕉が500年後に足跡を追っていくという。20何分位のビデオですけど。芭蕉記念館かなんかで、上映するということで、芭蕉のやつはとったんですよね。昨 年もナレーターしてたんですよね。知ってるつもりの西行、なんか西行に縁があるのよ。偶然なんだけどね。」
1928(昭和3年)12月21日 会津若松市 生まれ
会津若松といえば白虎隊。アイズとヤイズで語呂合わせではないのでしょうが、佐藤 慶さんは焼津の荒祭りには必ず出かけるとの事。見かけた方はご一報を。
佐藤 慶さんへのインタビュー・著作等をもとに纏めたものです。(文責:後藤卓也)